中央アルプス 木曽駒が岳(秋) (きそこまがたけ)標高2.956m
●しらび平●千畳敷 ●乗越浄土■頂上木曾小屋 ●大樽小屋●桂小場 |
2002.10.3 隣の人のゴソゴソする音で目が覚めた。枕元のヘッドランプで見た時計は4時45分。音を立てないように布団をたたみザックを持ち玄関に。足元の防寒を兼ねスパッツをつけ、ご主人に挨拶し外に出た。外は木曽谷から吹きあがる冷たい風が顔に当たり、あわててタオルで頬かぶりをした。
ご主人が勝手口から見送りにでてきた。気をつけて行くようにとの言葉と共に、途中で食べるようにと梅漬を渡してくれた。ありがたくいただきポケットに。山頂でのご来光に間に合うように出発したのは五人。足元をランプで照らしながら明るくなってきた空を見て急いだ。 |
乗鞍岳と北アルプスの山並み |
神社脇で寒さをしのいでいたら東の空が赤くなってきた。5時38分甲斐駒ケ岳の横から陽が昇ってきたが雲が邪魔をしてなかなか出てこない。それでも写真が目的で早起きした三人は盛んにシャッターを切った。私はモニターを見ながらの撮影だったが良い写真にはならないと思った。反対側に目をやると雲海の先に幻想的な風景が広がり、まるで墨絵のようだと思った。 ゆっくりの山頂を後にして、最初からの予定の桂小場(伊那)ルートを下ることにした。中岳からの巻き道を過ぎ、馬の背に向かっていたら大きな岩があったので朝食をとることに。薄日も当たり岩陰は風もなく最高の場所だ。ガスストーブをつけ餅入りラーメンを作った。多少気圧の関係もあるのか沸騰まで時間がかかった。 馬の背ルートに入ってから初めての登山者が登ってきた。30代も前半と思われる若い男性。お互いに何となく顔がほころぶ。私と逆コースになるが桂小場から登り、昨夜は解放されている伊那市営西駒山荘に宿泊してきたとのこと。先方も昨日以来初めて行き会った登山者といってうれしそうだった。 馬の背ルートは途中大きく切れ込んだ場所もあるが十分注意して通れば問題がない。所々濃ヶ池カールを望むことができるが高いところから見下ろす眺めは最高だ。やがて濃ヶ池への分岐、ちょっと下ると宮田高原・伊勢滝コースへの分岐もある八合目に着いた。 |
馬の背を望む |
遭難記念碑 |
西駒山荘 |
濃ヶ池には寄らずに下ることにした。ちょっと気を使ったルートを過ぎたので軽快な歩き。ただ上空には厚い雲がかかってきて太陽を隠している。こんな天気はデジカメの発色が悪いので残念。それにうっかりしていたが記録の為のコンパクトフラッシュカードの残り撮影枚数がなくなってきてしまった。予備のカードは8MB。まだ先は長いのに大きなミスをしてしまった。本意ではないが画像サイズと画質モードを落として乗り切ることにした。 緩やかで少し登りのコースが続いていたが目の前に大きな石に刻まれた遭難記念碑が見えてきた。脇にある消えかかった説明文には次のように記されていた。 大正2年8月26日中箕輪尋常高等小学校の教師、児童、同窓生37名は急変した台風の中を伊那小屋(現宝剣山荘)の破小屋を修理して仮夜を送らんとしたが果たせず、翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ、駒飼ノ池、濃ヶ池、将棊頭にわたり三三伍々に分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死した。この遭難記念碑は上伊那(郡)教育会の主唱によりこの自然石に刻まれた。 往古からの登山は熊笹をかき分け倒木や巨岩を避けて野営を重ね、その困難は計り知れぬものであった。たまたま中箕輪小学校の遭難は内外に大衝撃を与え宿泊施設の建設及び登山道整備が緊急不可欠の要望となった。これらが順次実現すると共に大正の中期からは心身の鍛錬道場として積極的に登山?は高揚した。 宮田村誌より 近年、この遭難が「聖職の碑」として新田次郎氏により小説化された。 今のような山小屋や登山道の整備されていない時代に思いをはせながら手を合わせお参りさせていただいた。 やがて伊那市が管理している西駒山荘に着いた。シーズンが終わり管理人も下山しているから静かだった。オフシーズンは避難小屋として開放されているようだが、このルートを通る登山者にとって心強い山小屋だと思った。 |
行者岩と茶臼山を望む |
西駒山荘下の水場で喉を潤し出発前に熊よけの鈴をリュックに付けた。急ににぎやかな音が響きだした。ナナカマド、ダケカンバの斜面を巻いていくと足元には「しらたまのき」が咲いていた。色づいた木々の間を下っていくと目の前が開け分水嶺に着いた。 正面の高いところには行者岩、稜線歩きではずうっと見えていた御嶽山ともここでお別れだ。薄日もさしてきて周辺の紅葉が見事に映える。いつまでもいつまでもその場に居たいと思うほど気持ち良いところ。本当は二人で来る予定も留守番している女房にも見せてあげたい素晴らしさだった。 |
しらたまのき |
ナナカマド |
黄葉の先には御嶽山が |
胸突ノ頭を過ぎると傾斜のきつい胸突き八丁と呼ばれるところだ。石がごろごろしている急峻な道を慎重に下る。先はまだまだ遠い。高度が下がるにつれ暑くなってきて汗びっしょり、防寒のため着ていた上着を脱いだ。島津様、弘法石と名のつく大岩を過ぎ、やがてベンチのある「やっとこ平」に着いた。ザックを下ろし小休止とした。ずうっと食べずにとっておいたトマトが美味しかった。 信大ルートといわれる分岐を過ぎ、しばらく下ると大樽小屋に着いた。無人の避難小屋だ。ちょっと覗いてみたら六畳間ほどの板の間だった。シートも用意されている。隅のほうに使用済みの携帯ガスボンベが三つ、ザックの荷を軽くしようと置いていったのだろうが持ち帰らなくてはいけない。 少し早いが外のベンチで昼食、湯を沸かしコーヒーと菓子パンで済ませた。また頂上木曽小屋の主人にいただいた梅漬を食べてみた。まるでお菓子みたいに美味しく漬けてあった。 |
大樽小屋 |
落雷事故記念碑 |
歩きやすくはっきりした道をどんどん下る。途中、昭和50年7月、伊那中学校の集団登山のおり落雷事故のあったことを示す記念碑があった。当時、新聞にも大きく報道されたので鮮明に覚えている。こんな場所でと思われるところだった。その時の重傷者もその後すっかり回復したとのことで幸いだった。 馬返し、横山への分岐を過ぎ、ちりめん坂というジグザク道が延々と続くが、里はまだまだ遠い。足も疲れてきたが集中力は切らさないようにした。登山道沿いに「イグチ=じこぼう」というキノコが目につくようになった。季節の山の幸を少し採らさせていただいた。 ブドウの泉という豊富な水場を過ぎると小黒川の水音が大きく聞こえてきた。あと少しと嬉しくなってきた。やがて発電用の導水管を越えると登山口の桂小場に着いた。馬の背上で会った登山者以外つい一人も会わないルートだった。時間はかかるが静かな山行きを望む人には魅力あるコースと感じた。 |
2002年10月3日 撮影 |
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